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腰馬

ページID:0022167 更新日:2015年9月16日更新 印刷ページ表示

腰馬(東西神社)

腰馬

こちらは、善通寺市の吉原地区十五丁にある東西神社の秋祭りに見られる光景です。
境内で馬を見立てた装具をつけて、行進します。

これを腰馬といます。
腰馬の由来は、丸亀藩の曲垣平九郎という馬の名手の物語にあります。

曲垣平九郎

寛永11年に江戸幕府の三代将軍家光公が将軍家の菩提寺である芝の増上寺に行き、帰りに江戸(東京)の愛宕神社の下を通りました。
そこでは、源平の梅が満開でした。
家光公は、その梅を目にし、 馬で登りとってくるように命じました。

愛宕山の石段は急勾配で、なかなか名乗り出る者がいませんでした。そんな中、一人の武者がその石段を登り、見事に梅を取ってきたそうです。これが丸亀藩の家臣で曲垣平九郎(まがき・へいくろう)でした。
平九郎は見事、山上の梅を手折り、馬で石段をのぼり降りして、家光公に梅を献上しました。
家光公は、泰平の世に馬術の稽古を怠っていないことを賞賛したうえで、彼をして「日本一の馬術の名人」であると讃えました。
この故事にちなみ、愛宕神社正面の坂(男坂)は「出世の石段」といわれるようになりました。

話はもどって、東西神社の腰馬について

腰馬

善通寺市の東西神社で披露される腰馬は、その地域で生まれた子ども達も、曲垣平九郎のように、健やかに成長してほしいという地域の大人達の願いを込めた行事です。

秋祭りの際には写真のようにかわいい子供達が腰馬を身に付け境内を歩きます。

地域の人からすればあたりまえの光景でも、ちょっと離れて見ると感動を覚えることもあるとおもいます。
この腰馬は、大人達が子ども達の健やかな成長を願って行う、地域独特の美しい風習です。
地域の「まつり」は年を経るごとに小規模になっていっているのが現状です。

善通寺市で受け継がれているこうしたあたたかみのある光景を少しでも後世に伝えていきたいものですね。

近隣の良く似たまつり(多度津町庄の天神祭り)

大字庄の笠屋という集落に天神さんがあります。神幸の行列には、庄の各集落から出た子供が張子の馬を乗りまわします。張子の馬を首から掛けて中へ自分の足を差し入れています。神輿がいよいよ本社を出て御旅所へ行こうとするときにダカ(先駆けの天狗)がウママワシということをします。ウママワシとは神輿の前でウマに円陣を作らせてダカが先頭に立って二、三回ぐるぐると走らせるもの。それがすむと神幸の行列となって、本社から替地池の堤をまわって御旅所の荒神社まで行き、ウマがそれにつき従って行きます。

子供馬写真

『新編 香川叢書 民俗編』より。編集:香川県教育委員会/発行:新編香川叢書刊行企画委員会

参考)八朔だんご馬

八朔だんご馬写真 
(写真提供:山地製菓)

 中讃地域に伝わる祝い菓子に「八朔だんご馬」があります。

 なぜ馬をつくるのか・・・という理由については、前述の曲垣平九郎にあやかったとも言われます。また、崇徳上皇が讃岐に流されて来たとき、慰めるため米の粉でだんご馬を作ったのが始まりともいいます。主に男児の出生を祝う行事とされています。
  だんごは米の粉で、骨組みは木や鉄でできており、昔は子どもが乗ることができるほどしっかりとしたものもあるそうです。家で飾った後は近所の家々に振る舞い、男児の誕生や成長を地域全体で祝っていたそうです。

 この近隣における祭りの「うま」は、曲垣平九郎に対するあこがれの気持ちの象徴なんですね。