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善通寺市デジタルミュージアム 乃木神社
乃木神社
駅前の片原町通りを西に進むと、四国学院大学西側の大通りに面して緑の森が見えます。ここに乃木神社と讃岐宮(香川県護国神社)があります。向かって右手、神明型というシンプルな形の鳥居が立っているのが乃木神社です。
ここには明治天皇の御大葬日(1912年)に殉死した乃木希典(のぎまれすけ)・静子夫妻が祭神として祀られています。乃木神社は、乃木将軍の死後、その生きざまに感動して多くの人々が乃木邸を訪れたことから、夫妻の霊を慰める「乃木会」が結成されたことに始まります。東京など数ヶ所に乃木将軍にゆかりのある神社がつくられ、善通寺には昭和10年(1935年)に造営されました。
社殿は装飾を抑えた簡素なデザインになっています。これは従来の伝統的な神社建築とは異なるところがあるため、大工でなく建築家のデザインによるものではないか、ともいわれています。
善通寺と縁の深い軍人・乃木希典
陸軍大将として多くの人々から尊敬された乃木希典(のぎまれすけ)は、嘉永2年(1849年)に長州藩士として江戸に生まれ、藩校明倫館に学びました。旧幕府と新政府軍の戦いであった戊申(ぼしん)戦争、西南戦争に参加した後、ドイツに留学して軍政や戦術を学び、帰国後は陸軍改革に取り組みました。日清戦争従軍、台湾総督を経て、明治31年(1898年)に善通寺の陸軍第11師団の初代師団長として着任しました。
師団長として赴任した2年8ヶ月、乃木希典は金倉寺(こんぞうじ)を宿舎としました。大晦日のこと、東京から静子夫人が面会に来ましたが、会わずに追い返します。途方にくれた婦人は、しばらく境内の松のたもとにたたずみますが、やがて夫の意をくんで帰っていきました。この話は明治の軍人の気骨をしのばせる逸話となり、夫人がたたずんだ松は「妻返しの松」と呼ばれています。
日露戦争では、第3軍司令官として旅順を攻略。参議官、学習院長を歴任し、1912年、明治天皇の御大葬の当日に夫人とともに殉死しました。
所在地
文京町4-5
JR善通寺駅から歩いて約10分。
片原町通りと善通寺・大野原線の交差点の左手。