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善通寺市デジタルミュージアム 乃木将軍・妻返しの松

ページID:0012208 更新日:2015年3月1日更新 印刷ページ表示

乃木将軍・妻返しの松

善通寺市デジタルミュージアム

乃木希典 善通寺と縁の深い軍人 (1849年12月25日~1912年9月13日)

乃木将軍写真

乃木将軍写真

 

 

 





 陸軍大将として多くの人々から尊敬された乃木希典(のぎまれすけ)は、嘉永2年(1849年)に長州藩士として江戸に生まれ、藩校明倫館で吉田松陰の師である伯父玉木文之進に学びました。その後、旧幕府と新政府軍の戦いであった戊申(ぼしん)戦争、西南戦争に参加した後、ドイツに留学して軍政や戦術を学び、帰国後は陸軍改革に取り組みました。
 日清戦争で旅団長として従軍、台湾総督を経て、明治31年(1898年)に善通寺の陸軍第11師団の初代師団長として着任しました。日露戦争では第3軍司令官として旅順を攻略、1907年には学習院院長となり、その精神主義を以って皇族子弟の教育に当たりまます。そして1912年、64才のときに明治天皇の御大葬の当日に妻と共に殉死しました。亡くなるまで多くの兵を死なせたことに強い自責の念を感じていたことが伝わっています。

妻返しの松

乃木将軍・妻返しの松写真

 師団長として赴任した2年8ヶ月、乃木希典は金倉寺(こんぞうじ)を宿舎としました。大晦日のこと、東京から静子夫人が面会に来ましたが、会わずに追い返します。途方にくれた婦人は、しばらく境内の松の木のそばにたたずみますが、やがて夫の意をくんで帰っていきました。この話は明治の軍人の気骨をしのばせる逸話となり、夫人がたたずんだ松は「妻返しの松」と呼ばれています。

関連する偉人・文化財

 旧師団司令部  旧善通寺偕行社  金倉寺  昭和天皇

 所在地

金蔵寺町1160
JR金蔵寺駅から歩いて約5分。

 金倉寺地図